ワシャクトゥン遺跡

PR

 

中央アメリカ 遺跡と自然巡りの旅:第9回

グアテマラ

ワシャクトゥン遺跡



前回に戻る 目次に戻る 次回へ進む



オンボロバスに乗って遺跡に出発

ワシャクトゥン遺跡はティカル遺跡の北約23劼飽銘屬垢襯錺轡礇トゥン村に隣接しています。フローレスから比較的近く、一日1本のバスも運行されているのですが、観光で行く人はあまりいないようです。ツアーは無いので、午後2時にサンタエレーナの市場から出るバスで行くことにしました。問題は、バスが村に着くのは夕方5時過ぎで、翌日の朝6時過ぎにはサンタ・エレーナに向けて出発してしまうことです。つまり、到着した翌日に遺跡を見ると朝のバスには乗れませんから、2日間も村に宿泊することになります。しかし、考えても仕方ありませんから、とりあえずバスに乗ってみました。

  何年もの間酷使されてきたオンボロバスはノロノロとティカル遺跡に向かって走ります。途中で止まって客を乗せてはまた走るという繰り返し。数日前、同じ道をツアーバスで快適に走ったのとは大違いです。バスは、ティカルに着くと見学用の道路に進んでいき、そのまま遺跡の中の道を走り抜けていきます。

 

乗客は地元の人しかいない。

大きな広場に面したワシャクトゥン村

ティカル遺跡から先は未舗装の道路で、雨で道がぬかるんでいるため、バスはさらにゆっくり走るようになります。ティカルから23劼瞭擦鬚燭辰廚1時間以上かけ、夕方5時過ぎになって、ようやくワシャクトゥン村に到着しました。

 村は、小型飛行機の滑走路のような形の大きな広場に面して家がまばらに並んでいます。その広場には馬や豚、鶏、七面鳥などが自由に遊んでいました。いかにも僻地の村という雰囲気で、ホテルなどありそうな感じがしません。そこで、バスの運転手に聞いてみると、「この村には2軒ホテルがある。1軒はここだ」と停留所の前の家を指さします。降りてみると、そこは小さな雑貨屋でした。店にいた女性に「ここホテル?」と聞くと、「そうよ。泊まるの?」と、ぶっきらぼうに答えます。まるで、泊まってほしくないような言い方でした。

 もう1軒も大差ないだろうと思い、部屋に案内してもらうことにしました。建物はブロック作りの壁を漆喰で塗装したもので、古びたベッド以外何もない、土臭さが充満した倉庫という感じです。中南米の田舎ではよくある、寝れるだけでいいタイプの宿泊施設でした。

 日没まで少し時間があったため、村を歩いてみることにしました。広場に面した家々の背後には密林が迫っており、どうやらそこに遺跡があるようです。案内図を見ると、村は遺跡のど真ん中に作られている感じで、村を囲むようにして、いくつもの遺跡グループが示されています。私が、遺跡グループのある方向に歩いていくと、男の子の兄弟が近づいて来ました。

 年上の男の子が「僕たちがガイドしてやる」と言います。しかし、もう薄暗くなっています。男の子は、手にした懐中電灯を振って、「これがあるから大丈夫」と言いますが、暗くて写真が撮れなくては行く意味がありません。私は男の子たちに「明日またね」と言って別れました。

ワシャクトゥン村の広場。家畜類を遊ばせておくスペースになっている。

ワシャクトゥン村の雑貨屋兼ホテル。

ワシャクトゥンの案内図。中心の滑走路のようなスペースが広場。

ティカルの支配下で栄えた王朝

翌朝、朝6時前に遺跡に向けて歩き出しました。「朝早いから、昨日の子どもは起きていないだろう」と思ったのですが、ちゃんと待っていました。ガイドというより監視役のような二人の男の子に先導され、遺跡を巡ることになりました。

 ウィキペディアのスペイン語版によると、ワシャクトゥンは先古典期中期(紀元前900年ころ)に定住が始まった古いマヤの都市で、古典期(紀元250年〜900年ころ)を通して発展、拡大を続けました。元々は独立した都市だったのですが、勢力を拡大した隣国ティカルとの争いに敗北。その後は衛星都市として存続したようです。

  ちなみに、ワシャクトゥンという名前は米国の考古学者が名付けたもので「八の石」といった意味です。その由来は、戦争に勝利したティカルの王からワシャクトゥンの王に贈られた石碑を解読したところ、数字の8から始まる文字が刻まれていたことだそうです。

 まず、遺跡の中心的な位置づけということで、グループAを見ることにしました。案内板によると、グループAの建築群は先古典期後期(紀元前350年〜紀元後250年)に誕生し、古典期を通してワシャクトゥンの権力機構の中心として発展。隣接するグループBとともに王朝の統治システムを形成していたそうです。

遺跡に通じる村の道。

森に埋もれているようなグループA。

グループAの小型ピラミッド神殿。

最古の石碑建立は328年

グループAには、広場を中心として神殿や宮殿などがあるのですが、ティカルのように巨大な都市ではないため、小規模な建造物群が森の中に埋もれるようにして点在しています。それも、ほとんど修復されないまま放置されているので、見ていても何がなんだか分かりません。

  彫刻が施された石碑も多いのですが、そのほとんどは風化していて何が彫ってあるのかよく分かりませんし、粉々に砕けているものもあります。ただ、小型のピラミッド神殿の横にあるESTELA9という石碑は重要です。ここに彫られたマヤ文字の解読により、これが328年に作られた、ワシャクトゥンで最も古い石碑であることが分かったそうです。ちなみに、最も新しい石碑はESTELA12で899年に作られました。石碑というのは王朝の存在と力を示すものですから、ワシャクトゥンは、非常に長い期間にわたって栄えたことがわかるわけです。

神殿横に倒れているESTELA9。

ESTELA9の表面は風化が激しいが文字はかすかに残っている。

砕けてしまっている石碑。

規模の大きい宮殿

グループAの見所は、宮殿垢筏榲A-将爾瞭鵑弔任后F辰傍榲足垢呂なり規模の大きい建築物で、一部の石組みが傾斜した独特の形をしています。これは、テオティワカンのピラミッド建築に代表されるタルー・タブレロ様式のタルー(傾斜壁)です。タルー・タブレロ様式はテオティワカンの影響によってメソ・アメリカの各地域に伝わり、様々なアレンジが加えられました。

 ワシャクトゥンもティカルを通じてテオティワカンと交流を持ち、タルー・タブレロ様式を神殿建築に用いました。有名なのはグループEにある仮面のピラミッドで、こちらはタブレロ(垂直壁)の方が大きくなっています。一方、この宮殿垢妨られるタルーが重なった形状も独特で面白いです。

  宮殿A-将爾歪絞形の基盤の上に漆喰で装飾された建築物が乗った形をしており、このグループでは最も良く復元されています。基盤部の形状は、やはりタルー部が大きいタルー・タブレロ様式に見えます。この建物の上には登ることができました。高さは10m程度ですが、周囲の美しい森を見渡すことができ、気持ちがよくなりました。

王朝の中心部だったグループAの宮殿后

規模は大きいが、修復はほとんどされていない宮殿后

タルー(傾斜壁)によって作られた部分。

かなり復元され、基盤部の傾斜壁もハッキリ分かる宮殿A-将次

球戯場くらいしかないグループB

次はグループBです。 看板にあったグループBの想像図では、赤色で塗られた神殿と宮殿が組み合わさった華麗な場所だったようです。

  案内図によるとB-爾箸いΕ團薀潺奪彪真静造鮹羶瓦法球戯場や建造物、石碑などが並んでいるのですが、現状では、復元されているのは球戯場くらいです。ピラミッド型神殿は土に埋もれており、石碑も、雨よけの小屋掛けがされていますが、風化が激しく絵や文字などはほぼ見えません。

グループBの想像図。

マヤの重要な神事を行った球戯場。

雨よけがついた石碑3。

最重要のグループEを見逃す

二つのグループを見終わると、村に戻ることにしました。他の遺跡グループは、村の反対側にまだあるのですが、子供たちは「早く帰らないと、バスが出てしまう」とせかします。しかし、すでに7時を回っており、6時半発のバスに間に合うはずもありません。私は、子供たちにガイドのお駄賃を上げると、宿に向かいました。

  この時、もし、ワシャクトゥン遺跡についての知識があれば、グループEには必ず行っていたはずです。ワシャクトゥンの最大の見所は、グループEにある仮面の神殿と太陽の動きを利用した宗教儀礼を行うための建築群なのです。このような仕組みの建築は多くのマヤの都市で確認できますが、これを「Eグループ」と呼ぶそうです。それは、最初に確認されたワシャクトゥンのグループEにちなんでいるわけです。

 この時は、もう遺跡見学を終えたつもりで、帰りの交通手段のことばかり考えており、この村でもう一泊するという選択肢はありませんでした。宿の女性に聞くと、「村からティカルに行くトラックがあるかもしれない」と言います。そこで、村の入り口にある食堂で朝食を食べながら、前を通る車を待つことにしました。

 それから1時間ほど待ちましたが車は通りません。あきらめて別の遺跡グループを見ようと歩き始めた時、乗用車が走ってきたのです。それに乗せてもらい、ティカルに戻れましたが、それが良かったのかどうか分かりません。ただ、遺跡巡りは、うまくいかないことのほうが多いのです。逆に、もう一度訪問する理由ができたと考えればいいのではないかと思います。

帰り際の村の広場では子豚が遊んでいた。

線


「第8回」に戻る

 

「第10回」に続く



 
ラテンアメリカ博物館
Copyright 2016, K.Norizuki.all rights reserved